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トマス・ステュアート()は、スコットランド王ロバート2世の庶子。1380年、アヴィニョンの対立教皇クレメンス7世は、グラスゴー司教区 (Bishopric of Glasgow) ストーボ (Stobo) の律修司祭の地位と聖職禄に加え、セント・アンドルーズ司教区の大執事職を、トマスに与えた。1389年、ロバート2世王はトマスのために、他の諸々の役職とともにダンケルド司教区 (Bishopric of Dunkeld) の首席司祭 (dean) の地位を占める権利を与えることを教皇に要請して、これを認められ、1389年には、教皇によってトマスにブリーヒン司教区 (Bishopric of Brechin) の律修司祭の座が与えられた。この頃、大執事であったトマスは、パリ大学から教会法の学士号を取得した。 1401年7月1日、セント・アンドルーズ司教 (Bishop of St. Andrews) ウォルター・トレイル (Walter Trail) が没したのを受けて、トマスは後任に選出され、司教管区の空席を埋めることになった。しかし、対立教皇ベネディクトゥス13世がフランス王シャルル6世の軍勢に包囲されていたため、トマスは教皇からの承認を得られないままでいた。こうした状況下で、トマスの選出は、当時の政治的闘争の犠牲となってしまった。トマスは、甥のロスシー公爵デイヴィッド・ステュアート (David Stewart, Duke of Rothesay) の支持を受けており、1401年を通じて、ロスシー伯爵の軍勢はセント・アンドルーズ地方で活発な動きを見せていた。しかし、この結びつきは、トマスを、腹違いの兄弟であるオルバニー公爵ロバート・ステュアート (Robert Stewart, Duke of Albany) との対立を招いた。ダンバートン城 (Dumbarton Castle) を支配下に収めるため、オルバニー伯爵は城を守っていたウォルター・ド・ダニエルストン (Walter de Danyelston) に、セント・アンドルーズの半ば空席になっていた司教管区を委ねた。1402年に、オルバニー伯爵と司教に選出されたままだったトマスはアバネシー (Abernethy) で会見し、トマスは司教への就任権を放棄し、新たに選出をやり直すことに同意した。 == 参考文献 == *Boardman, Stephen, ''The Early Stewart Kings: Robert II and Robert III, 1371-1406'', (East Linton, 1996) *Dowden, John, ''The Bishops of Scotland'', ed. J. Maitland Thomson, (Glasgow, 1912) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トマス・ステュアート (司祭)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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